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ガラスとスピングラス

2021年のノーベル物理学賞は“for groundbreaking contributions to our understanding of complex physical systems”,すなわち,「複雑な物理系の理解への画期的な貢献」に対するもので,「気候モデルの研究」で真鍋淑郎博士とKlaus Hasselmann博士が,“for the discovery of the interplay of disorder and fluctuations in physical systems from atomic to planetary scales(原子から惑星のスケールまでの物理系における不規則性と揺らぎの関係の発見)”でGiorgio Parisi博士が受賞されました。Parisi博士の受賞対象には「スピングラスの研究」が含まれます。

スピングラスは磁性体の一種で,1970年代に実験的に見いだされました。私たちの身の回りで実用化されている磁性体には,永久磁石,パソコン内に組み込まれたハードディスク,モーターや変圧器の鉄心などがあります。そもそも物質が磁場に対して応答して磁性体として振舞うのは,物質中に含まれる電子がスピンという性質を有しているためで,スピンは,きわめて微細な磁石のようなものと捉えることができます。永久磁石やハードディスクでは,多くのスピンが同じ方向を向いて規則的に並んでいるため,磁場に強く応答したり,自ら周囲に磁場を作ったりする性質が現れます。このような強い磁性は強磁性体やフェリ磁性体とよばれる物質で見られます。

一方,スピングラスは文字通りスピンのガラス状態です。ガラスは結晶とは異なり,構造を形作る原子やイオンの配列が広い範囲での規則性を持ちません。同様に,スピングラスでは,超微細な磁石であるスピンが向きをそろえずに不規則な方向を向いて固定されています。スピンの向きがそろっていないため,上記の強磁性体やフェリ磁性体と異なり,強い磁性は現れません。そのため,スピングラスは永久磁石やハードディスクなど実用的な材料としては開発されていませんが,スピングラスの理論研究は,脳の連想記憶のような機能の解明や,それをモデル化したニューラルネットワークを扱う情報学の分野に多大な影響を及ぼしてきました。その結果,今日何かと話題となっている機械学習やディープラーニングといった手法が開発されてきたわけです。

さて,スピングラスにおいて多数のスピンが不規則な方向を向いて固定された状態は,1種類や2種類ではなく,膨大な数の様式が存在しうることになります。まさしく,ノーベル賞の受賞理由で謳われているcomplex systems(複雑系)の典型例です。当然ながらこのような複雑系を理論的に扱うことはきわめて難しく,スピングラスについても多くの物理学者がさまざまな観点から理論的なモデルを提案してきました。その中には,1977年に不規則系の電子状態の理論的研究でノーベル物理学賞を受賞したPhilip Warren Anderson博士や,数学の概念であるトポロジー(位相幾何学)に基づいて2次元物質の状態の変化(具体的には超伝導など)の機構を理論的に明らかにした業績で2016年にノーベル物理学賞を受賞したDavid James Thouless博士も含まれます。彼らの名前は,Edwards-Anderson理論,Thouless-Anderson-Palmer理論,de Almeida-Thouless線など,スピングラスの理論や概念に残されています。

2021年のノーベル物理学賞を受賞したGiorgio Parisi博士は統計物理学の専門家で,スピングラスの理論的研究ではParisi解として名前が残っています。Parisi理論によると,スピングラスでは,スピンの不規則な配列に対応した安定な状態が何通りも存在し,その数は無限であることになります。スピングラスに変化する前の高温の状態は常磁性とよばれ,この状態では個々のスピンが熱エネルギーを受けて常に向きを変えるような運動を行い,全体の不規則な配列は固定されず時間とともに変化していますが,温度が下がってスピングラスに変化するとスピンが不規則に配列した状態が固定されるようになります。このとき,上記の通り安定な状態は複数存在し,温度が下がるにつれて安定な状態は枝分かれして増えていくことが知られています。このため,無限にある安定状態は互いに無関係ではなく相関性があり,また,高温からの冷却過程に依存して最終的に落ち着く安定状態が異なることになります。このように,一見,無秩序に見えるスピングラス状態には一定の規則的な構造が存在します。このような不規則系の本質を見いだしたことがParisi博士の業績の一つです。

前述の通り,ガラスは原子やイオンの配列が長距離の範囲にわたっては不規則です。もし,磁場に効果的に応答する鉄イオンやマンガンイオンなどが酸化物ガラス中に多量に溶け込んだ場合,それらの空間的な配置は不規則ですから,これらのイオンに付随したスピン(厳密には,複数の電子のスピンが足し合わされて,磁気モーメントとよばれる実体が作られます。磁気モーメントもきわめて微細な磁石とみなせます)の向きも空間的に不規則になり,スピングラスが現れそうです。実際,成分として酸化鉄や酸化マンガンなどを高濃度に含有したガラスの磁性は,スピングラスと非常によく似たものとなります。スピングラス状態は,銅や金に少量のマンガンや鉄が添加された合金の結晶や,やはり鉄やマンガンを含む酸化物結晶などで実験的に観察されてきましたが,酸化物ガラスが示す磁気的性質は,その特徴が酸化物結晶のスピングラスときわめて類似しています。このように,磁気モーメントを有するイオンが大量に含まれるガラスは,二つの意味でのガラス状態であるということができます。

京都大学 田中勝久

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